それでは、エジプトのスエズ運河国有化宣言に端を発して発生したスエズ危機は、どのようになったのでしょうか?
イスラエル軍の電撃的なシナイ半島侵攻と英仏両軍のスエズ地域の占領は、一端は成功したかのようでした。しかしながら、この戦争は、即座に停戦に追い込まれることになります。それは、米ソがともに、三国の運河地帯駐留に反対したからです。戦後直後のトルーマン民主党政権にあっては、アメリカは、イスラエル寄りの政策を選択しましたが、このとき、アメリカの大統領であったのは、第二次世界大戦の英雄である共和党のアイゼンハワーでした(伝統的にユダヤ人は民主党の支持者)。アイゼンハワー大統領は、スエズ動乱の混乱にまぎれて、ソ連のフルシチョフがハンガリーを武力で鎮圧(ブダペストの惨劇:1956年10月)したことに激怒することになります。また、ハンガリー動乱を弾圧した当のソ連も、三カ国の軍事行動を侵略とみなします。こうして、両国は、三カ国の撤兵を強く求めたのです。撤兵を要求するに際して、アメリカは、イギリスに対して、ポンド下落を買い支えないことを通達し、合意を引き出したと言われています。
中東紛争は、予想もしない方向に展開したのね、とまあちゃまは、溜息をつくのでした。
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