第二次中東戦争とは、東西両大国が旧来の植民地体制に終止符をうった象徴的な出来事ともなりました(スエズ運河は、1957年に、エジプトが、1888年に、同運河の自由化と中立化(国際運河化)を約したコンスタンティノープル条約の遵守を約束することで決着・・・)。そうして、中東紛争は、イスラエル対エジプトの構図を呈するようになったのです。
米ソの圧力で三国の駐留軍は撤兵することになりましたが、このことは、エジプトの威信をも高めることになりました。アラブ諸国は、エジプトを盟主とみなすようになり、大統領のナセルは、中東一帯に”ナセリズム”の旋風を引き起こすことになります。アラブ諸国は、エジプトを中心に統一国家を建設する運動にまい進することになり、1958年2月には、エジプトとシリアが合邦し、アラブ連合共和国が成立しました。このことにより、イスラエルは、アラブ連合に挟まれる格好となります。さらに、イエメンもアラブ連合に合流します。一方、同年同月に、このアラブ連合に対抗して、イラクとヨルダンもアラブ連邦を形成するのですが、7月には、カセム等によって、イラクに革命が発生し、親英国の王政が廃止されますと、両国の合邦は解消されます。。
イスラエル対エジプトの対立構図になってしまっては、パレスチナのアラブの人々は、蚊帳の外のようね、とまあちゃまは思うのでした。
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