カルト教団の魔の手は、とどまることを知りません。財力を手に入れた教団は、とうとう言論やマスメディアの世界にまで進出してゆきます。お金をばらまけば、新聞の論調を左右したり、宣伝塔となるタレント信者をテレビのブラウン管に登場させることは、いとも簡単なことなのです。
こうして、カルト教団は、マスメディアの世界を自分達の色で染めようとします。教団から新聞社に支払われる広告料は、莫大であると言われています。また、テレビの出演者を決定する権限を握ってしまえば、教団に加入したがるタレントやコメンテーターは増えますし、宣伝効果も期待できます。こうして、マスメディアの世界には、カルト教団のクモの巣で覆われてしまうのです。
それでは、言論やテレビの世界がカルトのクモの巣にからめとられえてしまいますと、国民は、どのような不利益を被るのでしょうか?国民は、新聞やテレビなどでは、教団の息のかかった論調の文章しか読んだり、見たりすることしかできなくなります。この恐ろしく貪欲なカルト集団を批判する記事など、めったにはお目にかかることができなくなるのです。これでは、言論の多様性は失われてしまいますし、何よりも憲法で保障された言論の自由が損なわれることになります。また、ブラウン管を通して、毎日毎日、教団のコネで出演している芸能人を見させらることになります。本当に才能のある人は、信者ではないために遠ざけられ、コネ採用の信者たちの演技に辟易させられるのです。カルトに魂を売った人たちの演技など、見ていて気持ちが良いはずがありません。これでは、人材が育ちませんし、番組の質もどんどん低下してゆくのです。
テレビが恐ろしくつまらないのは、もしかしたら、カルト教団のせい?とまあちゃまは、疑ってみるのでした。
投稿情報: 09:00 カテゴリー: 宗教, 時事問題 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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宗教団体は、人々の安全を脅かし、相互信頼社会を揺るがすのみならず、より深刻な害を国家や国民に対してなすことがあります。それは、欲張りな宗教集団が、政治権力を自分たちのために利用しようとすることです。
宗教集団とは、できる限り自らの信者を増やしたいと願うものです。この願いをかなえるために、宗教団体が、国家の統治権力や政治権力を利用しようとしたら、どのようなことになるのでしょうか?もしも、ある宗教団体が、政治権力を握って、自らの教団の信者にのみに利益を与えたり、特権を与えたりしたら、どのようなことになるのでしょうか。信者を獲得したい宗教団体は、政治的な利権で信者を釣り上げようとします。”当方の信者となれば、あなたは政府から補助金がもらえますよ、公共事業にも参加できますよ・・・”と、甘い言葉で誘うのです。こうした誘惑に負けてしまった人々は、信仰心ではなく、自らの欲のために教団に入ってしまいます。こうなりますと、宗教団体は、信仰をともにする集団ではなく、世俗的な欲の塊となってしまうのです。そうして、もっと恐ろしいことに、権力に近い教団の信者でない人々は、公的な宗教差別や迫害を受けることになってしまいます。統治権力や政治権力は、全ての国民に対して等しい距離にあらねばならないのに(法の前の平等)!政教分離の原則が必要な理由は、この宗教のマイナス面にもあるのです。
今日の日本は、とっても危ないのね!とまあちゃまは、憲法に定められた政教分離の原則をないがしろにして、宗教団体が政治と結びついてしまっている現状にぷんぷんです。
まあちゃまは、本当は、とての心配なのです。日本が、相互不信社会になってしまった原因のひとつには、宗教の原点から遠く離れてしまったカルト宗教があるように思えてならないからです。
信仰とは、時とともに、教義に共鳴する人々を集めて宗教集団をつくりあげるものです。そうこうしているうちに、神様や仏様の御心や本来の教義から離れて、教団を率いている人が、信者に対して大きな力を持ってしまうこともあります。教祖を中心として行動するようになった教団は、やがて、カルト集団と呼ばれる危険な存在に変貌してゆきます。人間が神様の立場にとって代わるのですから、これほど傲慢な行為はないのかもしれません。しかしながら、教祖の立場にある人にとっては、こんなに好都合な状況はないのです。なぜって、神様の権威を自分のために使えるのですから・・・。教祖の声は、神様の声となって信者を動かしてしまうのです。もしも、宗教的な権威をまとった教祖が、”テロをしなさい!”、”あの人の命を奪いなさい!”あるいは”家族や友人を裏切りなさい!”と命じたならば、信者は、迷うことなくこの言葉を実行に移すことでしょう。こうして、その教団は、結局、無慈悲なテロ集団になったり、悪魔的な犯罪集団になったりしてしまうのです。個人レベルのみなず、集団のレベルで、良心と倫理観の喪失が起きてしまうのですから、こんなに恐ろしいことはありません。悲しいことに、日本国では、現実問題として、良心のブレーキが外れたカルト宗教がからんむ事件が多発しているのです。
なんて恐ろしいことかしら!早く信者の人たちが気づけば良いのに!と、まあちゃまの心配はつのります。・・・
宗教が悪い作用に転じてしまうのは、信者が、誤った信仰から犯罪者となってしまうケースのみではありません。それでは、他に、どのようなパターンがあるのでしょうか?
信仰とは、個人の心に宿るものですが、同じ信仰を持つ人々は、互いに寄り集まって宗教集団をつくりがちです。信仰が個人の内面にとどまることの方が、むしろ稀であるのかもしれません。そうして、この集団化ゆえに、宗教は、社会的な意味も持ってしまうのです。
このため、ある社会おいて、みなが同じ宗教を信じている場合には、宗教は、社会倫理の基礎となり、人々をまとめる力として働くことになります。これは、宗教のプラスの側面でもあるのですが、同一の宗教を基盤とした社会の中に違う宗教が誕生したり、あるいは、同じ宗教の中でも分派ができて、複数の宗派が並立してしまうような場合には、これは、極めて強力な社会的分裂・対立要因として働くことになります。
歴史をふりかえってみますと、宗教的内乱の例は枚挙にいとまがありません。現代という時代にあっても、イラクを舞台に、シーア派とスンニ派が互いに相手の宗派を武力で攻撃しています。全知全能の神様が、人間同士がお互いに殺戮しあうことなど許すはずがない、にもかかわらず・・・。こうした場合には、宗教は社会の破壊力として働き、宗教勢力は、互いに自らの宗教で人々の信仰心を独占しようとします。やがて、宗教は、人間の心を憎しみで満たし、人間を、他者の消滅を容赦なく目論む非道な存在にしてしまうのです。
もしかしたら、日本だって危ないのじゃないかしら?と、まあちゃまは、にわかに心配になってきました。・・・
宗教には、人々の心をきれいに保ち、人と人との関係をやわらげる作用があるようです。古代にあっては、人類が弱肉強食の野蛮な時代を卒業し、人間らしいあり方を求めて文明化するのを助けたこともあったでしょう。しかしながら、宗教は、こうしたプラス面がある一方で、幾つかの側面では、残念ながら、マイナスに働いてしまうことがあるのです。
宗教が悪い働きをしてしまう第一のパターンは、宗教的な信念や思い込みが、信者を犯罪者にしてしまうケースです。宗教の教義とは、必ずしも一般的な道徳や倫理を肯定するものとは限りません。神や仏の名のもとで他者を害することを許す教義を信仰の対象としてしまった信者は、それを忠実に行動に移したとたんに犯罪者となってしまうのです。宗教的な狂信者は、国家の法律よりも、自らの信仰を最優先にするものです。しかも、やっかいなことに、”善意”から他者を殺めてしまうこともあるのです(堕天使?)。こうした自己中心型の宗教は、その教義を信仰していない他者にとりましては、何をしでかすかわからない・・・、危険な存在以外のなにものでもありません。いわば、狂信によって、人の心に備わるべき暴力への抑制力が利かなくなった残忍なモンスターになってしまうのです。このような状態に至りますと、宗教のプラスの作用はマイナスに反転し、社会に対して牙をむくようになるのです。
こわいなあ!とまあちゃまは思うのでした。・・・
正直ものがばかを見る!なんてことになったら、世も末です。それでは、どうしたらよいのでしょうか?
取引を行う市場においては、信用はとても大切です。ですから、市場で経済活動を行っている人々は、たとえ相互不信社会にあっても、自ら自分の信用を落とすようなことはいたしません(信用を喪失したら会社がつぶれてしまう!)。経済の領域では、不正に対してある程度の自己抑制が働くのです(もっとも、統制経済では不正がいっぱい!)。一方、政治や行政の領域では、組織の中で国民に対する背任行為や腐敗がはびこっていても、つぶれる心配がないので温存されてしまいます。民間よりも公的な部門の方が、隠れた不正が発生しやすいのです。
それでは、公人の不正や腐敗を防ぐ特効薬はあるのでしょうか?特効薬とはいかないまでも、幾つかの方法はあります。制度的な方法としては、政府、議会、官僚組織などの間にチェック・アンド・バランスを働かせ、外部や内部からきちんと相互に監視しておくことが挙げあれます。そうして何よりも、国民の信頼を勝ち取るためには、情報公開が必要です。かつて、日本の官吏さんは国民から厚い信頼を寄せられていたのですが、今日ではもはやその片鱗さえも残していません。不信が渦巻く社会においては、できる限り公の情報を公開して透明性を高めないことには、国民は誰も、自らの国を信用しなくなるのです。
まあちゃまは、”でも、やっぱり、公の人には、健全な心と責任感が必要ね”、とつぶやきながら、今日も学校へと出かけるのでした。・・・
何か、大切なものが壊れてしまったみたい・・・とまあちゃまは思うのです。それは、何なのでしょうか?
ついこの間まで、日本の社会には、相互信頼がありました。”うそは泥棒のはじまり!”は、親が子供をしかる時に、誰もが当たり前のように口にした言葉でした。”人様に迷惑をかけてはいけない!”とか、”人様のものを盗ってはいけない”といった、躾のきまり文句にある”人様”という表現にも、互いに相手を侵害したり、信頼を損ねたりしないための心の持ちようが現われていました。
でもでも、現在はどうでしょうか?まあちゃまは、ときどき、人間不信になったりします。確かに、人を信じることは良いことなのですが、信じてしまって騙されてしまうこともありますので、困ったものです。どうしたらよいのかな?とまあちゃまは考えました。自分が相手の信頼を失うようなことをしたら、自分自身の信用も失ってしまう、という単純なことに(得したようで損!)、もっとみんな気が付くべきなのかもしれません。
公人と私人とは、どこが違うのでしょうか?近頃、”おおやけ”も”わたくし”も区別しないことが多くなっています。でも、この二つをちゃんと分けないと、もしかしたら、とんでもないことになってしまう、とまあちゃまは思うのです。
例えば、おおやけの立場にある人が、自分は、私人と同じような自由がある!と主張したとします。その昔、民主主義という価値がなかった時代であるならば、嫌われ者になったとしても、それは、ある程度は許されたことかもしれません。でも、民主主義と法の支配が原則となった今日では、公人の役割や権限は、きちんと法で定められていますので、おおやけの人が気まま勝手をしますと、権力の濫用や越権行為、あるいは違法行為として咎められてしまいまうのです。つまり、現代という時代は、昔とは正反対に、私人の自由は広く保障されている一方で、公人の自由は厳しく制約を受けることになるのです(これが反対であると独裁国家!)。
自分の自由ばかりを追い求める独裁者は、国民の自由を奪っていることになるのね!とまあちゃまはぷんぷんです。
かつて、イギリス人のアクトン卿という方が、”権力は、かならず腐敗する”と言いました。本当にそのとおりみたい!、と誰もが思えてならない、今日この頃です。・・・
それでは、どうして権力は腐敗してしまうのでしょうか?一番の原因は、人間が、”悪い子”だから、少なくとも、”悪い子”の部分をもっているから、と思われるのです。でも、”悪い子”ってどういう子?とまあちゃまは考えます。
”悪い子”を定義することは、とても難しいことです。”良し悪し”は、使われている文脈によって変化することがあるからです。でも、統治や政治における”悪い”の基本は、案外はっきりしているのかもしれません。それは、自分のために権力を用いることです。統治権力とは、本来、人々からの”預かりもの”です。”預かりもの”ですから、自分の利益や目的のために用いてはならないのです。結構単純なのですが、権力があれば、他の人々を動かしたり、抑えたり、さらには一部の人を優遇したりすることさえできますので、ついつい、権力を持つ人々は、その魔力に目がくらんでしまい、それが預かりものであることを忘れてしまうのです。
”悪い子”って、強そうでありながら、権力の魔力に打ち勝てない”弱い子”なのかも・・・、とまあちゃまは思いました。