日本書紀のお話48と日本書紀のお話49にて、仁徳紀と応神紀には、確定紀年と延長紀年の区別があることをお話しました。
そして、もうひとつ、確定紀年と延長紀年の区別のある年代列があります。
これが、允恭紀です。
まず、允恭元年が実年代では何年に相当するのかを、確かめてみることにしましょう。
日本書紀の允恭5年条には、不可解な記述があります。
それは、允恭5年に反正天皇の”もがり”を行ったというものです。”もがり”という葬送儀礼は、仲哀紀以降の天皇紀にみられますが、通常、”もがり”の後、数か月で陵墓に埋葬されます。したがって、反正天皇の”もがり”が、允恭5年条に見えることは奇妙なのです。
このことから、反正天皇の崩年は、允恭5年であった可能性が浮上してきます。
そこで、古事記崩年干支が、反正天皇の崩年を西暦437年と伝えていることに注目してみましょう。西暦437年が允恭5年であったとすると、允恭元年は西暦433年であることになります。
では、本当に允恭元年は西暦433年なのでしょうか。
続きは明日ね♡
コメント