その背景には、もちろん、PLO自身が、パレスチナの外にあり、北アフリカのチュニジアの首都のチェニスに拠点を移していたこともあります。つまり、PLOは、もはや、イスラエルを武力で攻撃する力がなかったのです。その一方で、パレスチナにあっては、パレスチナ住民によるインティファーダが、イスラエルに対し一定の打撃を与えていました。そうして、パレスチナの住民の心は、イスラエルを地上から消すという不可能な目標を追求するよりも、パレスチナの独立、つまり、イスラエルとの共存という現実的な解決をへと傾きつつありました。こうした事情により、1988年に、アラファトは、1.イスラエルの承認、2.テロの放棄、3.パレスチナ国家建設を宣言したのです。
PLOは、現実路線を選択したことになるのね、とまあちゃまは、理解しました。