1919年1月、いよいよパリで第一次世界大戦の講和会議が開催されることになりました。
それでは、連合国諸国は、どのような戦後構造を抱いていたのでしょうか。実のことろ、連合国を形成した各国は、戦後構想において一致していたわけではないのです。まず、1917年4月に遅れて参戦したアメリカは、翌年の1月に、ウィルソン大統領が「平和14カ条」を公表し、その第12条において、トルコ帝国の支配下にある諸民族の民族自決を支持していました。この原則は、講和条約の原則とはされましたが、実際に会議が始まりますと、ウィルソンの理想主義は、権益を維持したいイギリスやフランスの強い反発を受けることにあるのです。
戦争が終わっても、それぞれの国の国益は違うので、合意に至るのは本当に大変なのね、とまあちゃまは、再び驚くのでした。
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