しばしば、善と悪なんて区別できない、と言われることがあります。しかも、自らを、時代の先端をゆく知識人であると称している人ほど、したり顔で善悪相対論を唱えるのです。
確かに、善と悪とをはっきり区別することは、難しいことです。同じ行いであっても、ある場面では”善”となり、また、別の場面では”悪”となったりするからです。例えば、相手を騙そうとして”うそ”をつくと厳しく咎められますが、相手を思いやる優しさからつかれた”うそ”は、”ホワイト・ライ”と呼ばれて許されることもあります。うそをつくことは、原則として”悪”なのですが、その動機が善良である場合に限って、”善”と見なされるのです。
しかしながら、ここで見落としてはならないことは、純粋な”悪”の定義は、比較的はっきりしていることです。それは、”自己の欲のために、他者を害した”、ということです。この自己の欲とは、おそらく心の内にある欠乏感や不満に由来しているのでしょうが、この場合は、動機も、行為も、結果も三拍子そろったまぎれもなく悪となります。そうして、むつかしい問題となるのは、動機、行為、結果との間に、善と悪が混在する場合です。こうした場合こそ、人々は、一生懸命に、善と悪について考え抜かねばならないのです。
”善”と”悪”を区別することは、それほど難しくはないけれども、”悪”の中から”善”を区別すること、あるいは、”善”の中から”悪”を区別することには、難しい場合があるのね、とまあちゃまは、今日から、善悪論争を始めることにしました。
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