そもそも、善悪の区別がなくては、人間社会に裁判制度など存在するはずもありません。人類は、その誕生から、”良い行い”と”悪い行い”を峻別してきたのです。と言いますよりも、行ってはいけないこと、つまり、人々が集まって生活する場の安全を脅かす行いを、慣習や神法、あるいは世俗の法律といった形をもって、特に強調して戒めてきたのです。民族や宗教などによって表現に違いがあるものの、殺傷や窃盗、あるいは、契約違反といった他者を害する行為を禁じている点において、共通項があるのです。
そうして、社会悪となる行為が定められる場合には、古来、表に現れる客観的な”行為”を列挙するというスタイルがとられてきました。”汝、云々することなかれ!”です。刑罰を科すか、科さないかは、実際に行われた事実としての”行為”によって判断されてきたのです。これは、行為を行うものの内面の意思を、外部の者が正確にうかがい知ることができないからです。もし、”動機”だけで犯罪が成立するとしますと、ひとつ間違えますと、内面の推測だけで、犯罪者にされてしまうかもしれません。これでは、免罪事件が後を絶たなくなりますので、刑罰には、事実が根拠として求められるようになったのです。
まずは、悪いことをしたら、その事実によって罰せられるのが原則なのね、とまあちゃまは、ふむふむと考えるのでした。
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