春秋二倍紀年法が日本書紀に用いられていないことを示すもうひとつの根拠は、父と子の年齢の問題です。
日本書紀には、安寧天皇は、綏靖25年に21歳で立太子され、安寧38年に57歳で崩御されたとあります。
これを二倍紀年と考えて、単純に2分の1にしますと、安寧天皇は、およそ綏靖13年に11歳で立太子されて、安寧19年に24歳で崩御されていたことになります。
そして、日本書紀は、次帝の懿徳天皇は、安寧11年に16歳で立太子されたと記しています。これも、2分の1にしますと、懿徳天皇はおよそ安寧6年に8歳で立太子されていたことになります。そこで、安寧6年の時点において安寧天皇は何歳であったのかを求めてみますと、11歳であったことになります(24歳ー13年)。安寧天皇は11歳の時に、8歳の御子があったことになってしまいます。
このことからも、日本書紀の編年には、春秋二倍紀年法は用いられていないことがわかるのです。
日本書紀に見える非現実的数字は、別の理由によって設定されているのです。それでは、それは、どのような法則なのでしょうか。