多列・並列構造の4本の年代列のうち、まずは、仁徳列の仁徳元年が、なぜ、西暦397年に位置づけることができるのか、という点からお話してゆきましょう。
15の古事記崩年干支のうち、応神天皇の崩年干支は、「甲午」の年です。応神元年が西暦390年に相当することは先に述べましたので、この「甲午」の年は、明治時代の紀年論争などを通して、394年と考えて間違えは無いとされています(応神天皇の在位期間は390年から394年までではないことは、後にお話します)。
そこで、日本書紀が、応神天皇が崩御されると、2年間の間、仁徳天皇と菟道稚郎子皇子が皇位を譲り合って、空位年となってしまったと記しています。そこで、394年に2年間の空位年を加えると、仁徳天皇の即位年は397年であることがわかってきます。
394年→空位年の2年間(395年・396年)→397年
仁徳列の仁徳元年は、古事記崩年干支を用いると、西暦397年であることがわかるのです。
この他にも、もうひとつ、仁徳元年が397年であることを示す法則があります。
続きは、明日ね♡
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