『日本書紀』と『三国史記』と比べてみますと、神功55年条の百済の肖古王の薨去は西暦375年、神功56年条の百済王子貴須の即位は西暦376年、神功64年条の貴須王の薨去と枕流王の即位は西暦384年、神功65年条の枕流王の薨去と辰斯王の即位は西暦385年であることがわかります。これらの百済王の即位年と薨去年から、巻9神功紀は、4世紀後半を扱っていることを示しています。
そして、次巻の巻10応神紀の応神元年は390年に相当することは先に述べたとおりです。巻9と巻10は、年代的にきれいにつながっているように見えます。
ところが、ここで、重大な問題が認識されてくることになったのです。それは、神功紀に配布されている紀年の数が、69であったことです。なぜ、69年であることが問題であるのか、といいますと、神功紀は、魏志倭人伝が引用されていることによって、3世紀を扱っていると考えられたからです。
神功紀は、3世紀を扱っているの?それとも、4世紀を扱っているの?という問題が発生しててしまし、江戸時代以降、多くの研究者によって百花繚乱の諸説が唱えられることになったのでありました。
続きは明日ね♡
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