巻10応神紀が4世紀末から5世紀はじめにかけての時代を扱っていることがわかってきながら、どうして、大きな議論が巻き起こったのでしょうか。
まず、問題は、巻9神功紀にありました。日本書紀のお話21でも述べましたように、神功紀には魏志倭人伝が引用されています。
さらに、神功55年条には、百済の肖古王の薨去、神功56年条には、百済王子貴須の即位、神功64年条には、貴須王の薨去と枕流王の即位、神功65年条には、枕流王の薨去と辰斯王の即位についての記述が見えます。
これらの百済王の即位と薨去についての記述が、日本書紀の編年の修正をめぐって混乱を生じさせることになったのです。
それは、これらの百済王たちの事績を『三国史記』に求めてみますと、いずれも、4世紀後半の王たちであったからなのでした。
続きは明日ね♡
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