昔から、失敗は成功の元、と云われ、その逆の成功は失敗の元もこれまた世の習いとされてきた。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと云うのも、盛者必衰も誰でも知っている原理であるが、不思議なことに、その当事者になると、そのことを忘れてしまうようじゃ。本当に人間と云うものは愚かなもと思う。ま至近の例を見てもこの法則が間違いなく行われようとしているが、我が国の政党人はこれに気が付いていないようじゃ。
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だんだんと選挙の時期になってきたようである。拙者も投票所に行くたびに不思議に思うことがある。それは投票紙に書き込む場所が丸見えであるということである。多くの国の投票所がTVなどに出てくるが、大抵はカーテンで仕切られ何を書いているのか分からないようになっている。一説によると手の動きで誰の名前が分かると言う。これでは公平な投票ができない。カーテンを付けるべきである。投票しに我が国では名前を書いているが、予め候補者の名前を書いておき、それにそれに印をつけるだけの方法も検討の価値がある。投票率が50%を切っている場合があるが、過半数の選挙人が投票しない選挙に意味があるか問題である。この場合は選挙のやり直しをすべきであろう。更に、正当な理由なく棄権をしたものに罰則を設けるのも必要なことではないか。最後に、投票は人ではなく政策に行うべきである。より国民の声が直接政治に反映されるシステムを作ることが拙者には望ましいように思われる。
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環境問題や福祉には高額の補助金が出ているようじゃが、拙者の経験からするとこれら補助金にはいろいろな利権が生じ、不正利得を稼ぐ輩が出てくる。まずは排出権取引からして怪しいが、その他環境関係技術への補助金も本当に環境の改善に役立っているのか、単なる補助金目当ての事業なのかきちんとした説明が必要じゃ。今回の福祉のための、郵便料金の割引制度で厚労省の役人が捕まっているが、これも福祉に乗かった汚職であり、その他、生活保護に対する不正も数多く報道されているし、隠れて表に出ない悪事ものも多いと思われる。兎角、環境・福祉と云うと善行のように思われるが、それを蝕む人間が出てくるのを社会は監視する必要がろう。基本的には補助金は必要なものだけ残し、減らす方向で検討するのがよい。
この度二週間ほどドイツを旅行してまいったが、その第一印象と云うと奇妙なことに道路の渡りにくさであろう。町は自動車幹線道路が走っているが、そこは自動車優先で、それを渡るには歩行者は長い時間歩行者信号が青になるのを待たなければならない。幅の広い道路となると一遍には渡れず、半分行ったところで、また長い赤信号を待たなければならない。ドイツ的合理主義、あるいは渡る歩行者が比較的少ない所為かも知れないが、まず道路横断に時間のかかるのには驚いた。
太古から多くの民族が住み着いたと考えられるが、 限られた一括りの島の中で暮しているうちに均一化され固有の文化風習が形成された日本と違い大陸国家と云うものは国民意識に一貫性がるものだろうか。そこでは多くの民族が襲来し駆逐しあい、あるいは住み着き、支配しあうような土地に住んでいる人たちは多分に日本人とは違った国家観を持っているに違いない。例えば、支那大陸では入れ替わり立ち替わり異民族の集団が支配してきているが、丁度貸家に人が変わり変わりに住むようでは我が屋と云う意識は出てくるのだろうか?一貫した歴史と云うものを感じることができるのであろうか?近くは満州民族の清が支配し、その後は入れ替わり立ち替わり軍閥が支配し現在に至っている。しかし、頭が変わっても一般大衆はあまり変わっていないのではないだろうか?こう云う国と付き合うのは大変なことであるとつくづく思う。半島に至っては土地と住んでいる人を分けて歴史を考えなくてはいけないだろう。そうしないと、我が国と半島との関係を正しく見ることができなくなる。
加藤紘一代議士によると、新聞は国民の声を代弁しているものらしい。しかし、新聞は別に国民の声を代弁するものではないし、そのような役を国民がのぞ生んだこともない。新聞は商売として、ニュースを伝え、自分たちの主張を売っているものに過ぎない。広告も売るのも大事な商売である。悪い新聞は国まで売っている。それにも拘らず、国民を代表などと云っておだてるから、図に乗って正義の味方の様な顔して、今や世論を動かそうとすることまで始めることになる。これは極めて危険なことである。国民は新聞の方を監視しなければならない。
今上天皇ご夫妻の金婚式誠に御目出度いことである。しかし、我が国が天皇制を維持して行くには幾多の問題があることも事実である。まず、天皇の職務は国としての伝統行事であり、宗教行事でもある祭祀にある。しかし、国が宗教に関与することを禁じている憲法のために、国の象徴である、すなわち国家を体現している天皇が私的にしか祭祀を行えないとしたら大きな矛盾を抱えることになる。我が国の本来の神道は西欧諸国で云う宗教と云うよりは古来の文化である。この点の解決が必要である。第二に、天皇には誰でもはなれない様にしなければならない。そうしないと、その地位を狙う人間が数多く表れることになる。やはり血統による縛りが必要であろう。もうその位置を利用としている一派が表れている。第三に、天皇の教育をどう行うかことである。天皇には特別の務めがある。そのためには特別の教育が必要である。開かれた皇室と云って普通の人と同じ教育をしようとすると、普通の人ができてしまう。今の皇太子の問題も教育を天皇皇后が自ら行おうとしたところに遠因がある。
拙者の見るところ、米国は豊かな国である。広大な土地に、広々とした農地、豊かな天然資源など莫大なエネルギー源を抱えているように思える。そのエネルギー源を製造業によって製品に変え莫大な富を生み出してきた。ところが、その製造業の一部が国際競争力を失い、撤退することになった。かっての織物産業から今日の自動車まで後退の一歩を辿っている。人的及び自然エネルギーなどいくら誇っても物にしなければ利用価値はない。金融やITで生きようと言ってもそれらは単なる潤滑剤であり、触媒の役しかなさない。経済学者の中に絶対不可能な永久運動を信じている人がいるようで心配である。製造業の復活には新興国特に中国との労働コストで勝たなければならない。すると、米国の労働者は、中国並みの給料で暮さなければならなくなる。一辺上がった生活水準を下げることは不可能であろう。それでも米国は製造業の復活が必要であると思える。まず、人ごとなれど、GMの賃金は下げるべきであろう。
今回の経済危機を起こした犯人であるAIGはあまりにも巨大さで、その影響力が大きすぎて潰すことができない。グローバル化などと云って企業買収などをして企業が巨大化することはよいことだなどと云う風潮があったが、これは危険なことである。巨大化は能率的であると云う面があるが、ある種の危険に対して全く共通に抵抗力を失い、その一つの危険ですべて死滅する恐れがある。世の中では、多様性が大事であり、いろいろな抵抗力を持っていなければならない。恐竜の例が巨大化の危険性を警告していると言える。さらに、巨大化すると、その運営者はその巨大さゆえに組織が潰れないと考え、それに甘え、運営態度はルーズになる。AIGやMGがよい例であり、彼らの莫大なボーナスもその表われの一つである。国家でも、世界に唯一の巨大国家が出現すれば、他の国は奴隷化される恐れが生じる。世界に、影響力の大きい強大な組織を出現するのを防ぐべきであろう。
先のブログで、邪馬台国はどこを議論したが、女王国に位置を宮崎とすると会稽東冶の東とすると、少々南過ぎになり、その魏志倭人伝の記述と少々誤差が大過ぎると考える。そこで、第一回の魏使が帯方郡ではなく、楽浪郡から出発し、その緯度の差を8°として、女王国の位置を報告しているならば、宮崎の緯度約31.5°にたいし、8°上は39.5°となり、これは帯方郡の北になり、楽両郡の位置と大体一致することになる。魏志の著者はこれを第二の魏使の出発地帯方郡の位置と混同したために、会稽東冶の東となってしまったのが真相でなかろうか。そう仮定すれば話が合う。すると、やはり女王国は宮崎の地にある。邪馬台国は宮崎の地か奈良盆地にある、あるいは両者の地にあることから当時の我が国の情勢の分析を始めるのが正しい姿を求める道であろう。