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実に不思議なことだが、機械と云うものは整備をしたり、修理をすると調子が悪くなるものらしい。たとえば、前は車を車検に出すとなんとなく調子が悪くなるような事がよくあった。このまえも、CDプレーヤーを修理に出したが、また、一年もたたずに故障してしまった。今回の、中華航空の事故もどうやら整備の時にワッシャーを取り付けるのを忘れたらしい。どうも、機械製造過程での完璧度と、整備時での体制や技術者の熟練度に差があり、後者の方が劣っているようじゃ。こうなると、何のための整備なのか分からなくなる。くわばらくわばら。
マスコミをはじめ、民主党なども格差のない社会などと盛んにキャンペーンを張っている。格差のない社会を言いかえれば、平等社会である。これは、すでに失敗に終わっている共産社会と同じことを言っているにすぎない。いつから、わが国は共産社会を目指すと云う同意が形成されたと云うのだろうか。民主党の言うことはさらに酷い。農家の所得保障まで言いだしている。それならば、サラリーマンも最低所得に達しなかったら、所得保障をしてくれると云うのだろうか。都市と地方ではいろいろな面で差があることは確かであるが、それは特質の差でもあり、格差というものではない。地方の方がいわゆる格差が高い面はたくさんある。一票の格差、生活費、広い土地、きれいな空気、税金を払う率、一人当たりの車の数などなど数え上げればいきりがない。と云う訳ではないが、拙者も一寸地方に旅行をしてくる。
宗教についての、拙者の考えを昨日述べたが、云い忘れたことを書くことにする。それは、宗教が担ってきた、人々に道徳・倫理を教える面じゃ。確かに、野蛮であった人類に、正しい社会生活の規範を教えてきた功績は絶大である。中には変な規範もあるが。しかし、道徳・倫理と云う概念は宗教なくしては成り立たないだろうか?そう云ったものは正しい社会生活を送るに必要なものであることは、万人が認めるところであるから、基本的には宗教に頼らずに、学校教育や家庭・社会が持っている自浄作用的雰囲気で養うことができよう。もう、盗みを働いたら、地獄に落ちるぞと云ったことで脅かして、それらを守らせるなどは、現代の人たちにはできなくなると考えられる。もちろん、まだテロと結びついていると見られる宗教はあるが。
人類が最終的に解決しなければならない問題の一つが宗教であろう。拙者の考えでは、宗教は人間に大きな影響を与えるもの制御できないもの、たとえば、畑作での太陽とか、漁猟や航海での嵐等に対する畏怖の念、あるいは、祖先の大人に対する畏敬の念、あるいは、死に対する恐怖の念から超自然的なものの存在を信じるところから発したものであろう。宗教がその範囲にとどまれば良かったが、一神教の発生が問題じゃ。モーゼが契約を行った相手は、自らを神と称する、ツタンカーメンの父アクワアテン・エジプト王と考えるのが妥当だろう。その契約、あるいはそれ自体を独占しようとするから問題が生じる。考えようによっては、弱い民の自衛手段とも考えることができよう。何はともあれ、人間の精神や肉体の弱さが宗教を生んでいる。その点、マルクスに救いを求めている共産主義者や、独裁者に救いを求めるのも宗教じゃ。その救いを強いもに求め、救われようとするから問題じゃ。結局、人間の弱さを解決する手段を見つけることができれば、解決できそうだが、それが又宗教になっても問題じゃ。いやはや、宗教とは難しいものだ。
拙者の個人的経験から言うと、一般の米国人は外国のことをあまり知らない。まあ、すべてのものを、国内で賄う事が出来るし、外国に影響を与えても、外国から影響されることは殆どないのでしょうがないが。今回のブッシュ大統領の我が国とイラクの比較などはその典型的な例である。彼の頭の中では、戦前の日本は、神につかれて戦争し、しかも独裁国家であったくらの認識しかない。いわゆる従軍慰安婦問題の認識もその域を出ない。それに、近隣諸国がこれまた悪意に満ちたプロパガンダをするので手に負えない。しかし、わが国の外務省はそういった先入観念を払しょくする努力をしている様子もない。大使館と云うと外遊議員の接待とか、自分の国の方を見て仕事をしているとしか考えられない。国を統べる人間は国家百人の計を立て、外務省の改革を行うべきである。いかがかな!
インドとの価値観の共有を強めて行こうと云う安倍総理の方針には大賛成である。あらゆる面で、日印両国にとって益のある話である。ところで、我々はインドについて何を知っているだろうか?一般の日本人にとって、インドとは、お釈迦さまが生まれた地であることと、カースト制が強いことぐらいか知らないのが実情ではないだろうか?あとは、英国の植民地であったこと、ひどい貧乏にがいるが大金持ちもいること、抽象的思考能力、特に数学的能力が高いとか、インド商人はアラブ商人よりも商売が上手でること位であろう。これから、インドとの交流を深めてゆくには、我々にとっては、この不可解な面を多く持つインドと云う国をよく知る必要がある。フランスがアラブ研究所をもてえいるように、わが国はインド研究所のような組織を持つべきであろう。さらに、外交立国を言うのであれば、少なくとも、多くの国の事情を研究する機関の整備が必要である。どこかの大学の先生がある国の専門家として常にTVなどに登場するようでは心もとない。
変な専門用語を使った仮名交じり文は実に読みにくい。そこで、英語を使いたいのならば、一層のこと英語交じり文にしたらよいだろう。すべて、横書きにして、漢字の代わりに英語に置き換えるのじゃ。訓読みを加えてもよい。そうすれば、学校の生徒の英語の勉強にもなるし、変な和式発音に染まることもない。拙者ま恥ずかしいことながら、カタカナになっている英語をしゃべって、英米人に通用したことがない。ぜひ、英語交じり本も出してもらいたい。余計なことだが、仮名を使いたがる人は多分に外国の本や雑誌で知識を仕入れた人たちで、自分でものを考える力のない人たちであろう。自分で、世界最初の考えを思いついた人が、その概念を英語で(対応する英語はない)で書くはずがない。
現在の高校野球には問題が堆積している。第一に一新聞社が、販売増をめざいして主宰している行事である。その高校野球にNHKまでが尻馬に乗り、公共放送を超えた支援している。決して、国民的行事ではない。それに一部選手をもち上げすぎるスター主義をとっていて、扱いが公平でない。他のすべて競技にも同様の時間を割いて放送すべきである。その高校は地元の声援などと言っているが、選手は地元ばかりでなく、全国から集めた特待生とである。一部の学校は、極端に言えば、学校の営業部である。それに、甲子園などと、奇妙なお題目を作っているが、期間が2週間と云うのは高校にとって長すぎる。まず、幾つかの球場に分けて試合をし、精々準々決勝位から、甲子園を使うなら使うべきである。先ず、高校野球なのか、商業野球なのかの立場をはっきりしてもらいたい。出場選手には、最低限の高校生としての学力試験をしてもらいたい。
今日この頃の、あらゆるメディアでの片仮名の氾濫はどうしたことなのだろう。我が国には、表意・表音文字と云う便利な漢字文化があるのにじゃ。漢字は実に便利で、一目でその意味がくみ取れるし、文章の長さも短くなる。せっかく、明治の先覚が、使用の文字をその意をたいして漢文化したと云うのにじゃ何じゃ。現代人はそういった努力もせずにカタカナで表示するのはどういうことか、それも外国語の日本訛りの発音で表示するとは!その陰には、よく人にその意を伝えたくないと云う意識が働いているとしか考えられない。ペテン師が使用する手法かもしれない。そういえば、いかがわしい会社はカタカナ名が多いように思われる。ラテン語由来の西洋語なら、ラテン語の意味を知っている人たちには、単なる記号でなく、その意を知ることができるかもしれないが、カタカナ文字だけでは単なる記号であり、意味が伝わらない。こんな読みにくい文章はない。発音を考えるならば、昔漢字をそのまま使用したように、元の綴りで書いてもらいたいものじゃ。日本人が外国語が不得手なのも片仮名まじり文のせいかもしれぬ。
さて、拙者のテニスの練習日だが、今夏は暑く、体力勝負のテニスになりそうじゃ。さて、テニス訓の続きを紹介しよう。
(ち)チャンスを作る原因を探ればふりまわし、ようやく返るその球にあり。
(つ)突き出して体の前でパンチせよ、テイクバックはボレーに遅し。
(て)点でなく線でとらえよ球の軌道、フォア、ばっくの構え早めに。