なぜ、古事記崩年干支が、多列・並列構造の謎を解く鍵となるのか、その理由は、古事記崩年干支と日本書紀の立太子との間には、以下のような不可思議な関係が成り立っていることによります。
先帝の古事記崩年干支=日本書紀における次帝の立太子の年代
仁徳天皇を例に採ってみましょう。仁徳天皇の古事記崩年干支の「丁卯年」は西暦427年です。
そこで、この427年を、踰年称元法パターン2で整理して、日本書紀に見える次帝の履中天皇の立太子年の仁徳31年と考えてみましょう。
すると、仁徳31年は西暦427年であることになります。仁徳31年を427年に位置づけて、仁徳元年を求めてみますと、仁徳元年は西暦397年となります。
応神天皇の古事記崩年干支の394年に2年間の空位年を加えて求めることができる仁徳元年は西暦397年であることは、以前にお話しました。
前帝の古事記崩年干支が次帝の立太子年であるという法則によって求められる仁徳元年の西暦397年と完全に一致する結果となるのです。
このことは、古事記崩年干支として伝わった年代は、実際には崩年ではなく、譲位であった可能性を示しています。
続きは明日ね♡
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