日本書紀の神功紀の編年には、120年という数字が重要な役割を果たしていることが、わかってまいりました。
そして、120年という数字をめぐっては、さらに不思議な現象を応神元年から雄略5年までの紀年構成において、見出すことができます。
巻10応神紀は、『三国史記』などの海外資料と較べることによって、4世紀末から5世紀初頭までを扱っていると考えられることについては、先にお話ししました。神功紀とは違って、応神紀には、魏志倭人伝は引用されていませんので、研究者の間でも、応神紀は4世紀を扱っているという見解に、ほとんど異論はありません。そこで、次巻の巻11の仁徳紀は、実年代(西暦)で何年を扱っているのかと、いいますと、ここで、大きな問題が生じてくるのでありました。それは、仁徳紀には、海外資料と較べることによって、実年代を求められるような記事が無いという問題です。
続きは明日ね♡
追記:日本書紀紀年法において、120年という数字をめぐって、どのような構成になっているのか、ゆうちゃまのお話は遅い!もっと早くに知りたい!とお考えの読者の皆様は、倉西裕子のHP「倉西先生のご学問(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」の歴史学コースの日本書紀紀年法入門をご覧になってみてくださいね。
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