神功紀は、魏志倭人伝や日本書紀の編年をそのまま信じますと3世紀となり、百済王の即位や薨去の年代を海外資料に求めますと4世紀になってしまいます。どちらの説にも、もっともな理由があったのでした。
ところで、この3世紀説と4世紀説の間には、実は、ある法則があったのです。
この法則について、はじめて指摘したのは、江戸時代の国学者の本居宣長です。
宣長は、3世紀説の紀年に相当する実年代(西暦)に、120年を加えると、4世紀説の紀年に相当する実年代(西暦)となることに気付いたのです。例えば、神功56年の実年代は、3世紀説ですと、日本書紀の可視的編年のとおりに西暦256年となりますが、この神功56年条を4世紀説にしたがって、求めてみますと、西暦376年になりますので、ちょうど、120年ズレていることになります。3世紀説と4世紀説の間には、興味深い法則があったのでした。そして、120年の法則は、日本書紀紀年法を解明するためのたいへん重要なヒントとなったのでした。
続きは明日ね♡
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