魏志に間違いがあるとして、邪馬台国の場所について多くの説が出されている。しがし、必ずしも、間違いがないとしても、その記述通りで十分に説明が出来る。魏使は梯儁と張政の二人であるが、その報告は一つに纏められている。これを二つに分けて考えなければならない。後に来た張政であるが、彼は伊都国に魏の詔書と黄憧をもたらす役目を持って倭国に来ていると見られる。張政は松廬国に上陸し、東南に位置する伊都国まで五百里を歩いている。今の南原辺りに上陸し、現在の国道202号を東進して福岡辺りで南下すれば太宰府付近に五百里、すなわち一里76.6mとして38キロメートルで到着する。彼の役目はそれで終わっているので、それ以上の記述はなかったと考えられる。
梯儁の方は卑弥呼と会っている可能性が高い。しかし、梯儁は倭国のどの地点に最初に到達したかということは書かれていない。那国の西北へ百里、不弥国の西へ百里辺りに投錨したとも考えられる。奴国が今の那珂川上流で、不弥国が今の宇美町辺りとすれば、投錨地は博多港辺りとなる。この場合梯儁伊都国を訪れていないのは不思議であるが、伊都国は梯儁が来た後に出来た國とも考えられる。このことは安本美典氏の説によると、伊都は魏頃の中古音で書き表されており、その他の、例えば、一支国は上古音で書き表されていると言うことよりも推測される。
到着後、投馬国に寄港し、全三十日間の水行で邪馬台国に到着しているので、彼らが乗ってきた船で九州東岸を南下したと考えるのが自然である。陸路一カ月と云うのは到着点から旅程と考えられるが、これは倭人から聞いた話であろう。梯儁等は多くの荷物を持って歩いて行ったとは考え難い。陸路を行ったとしたら、途中通った国の名が出てこないのも不自然である。また一月と大雑把な値で表されている。
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