魏志倭人伝1は何処をどちらの方向に何里旅行したという話とは別に、女王国の位置を直接郡より一万二千里、会稽東冶の東にあると記している。そこで、この距離は郡より女王国と同緯度にある会稽東冶までの南北距離を表していると見られる。旅程に記述にある距離には水行などの所要日数も入っており、歩度などによる距離測定でないことは明らかである。それでは、この距離はそれ以外の方法、即ち太陽の高さとか、北極星の高さなどから求める天体観測により得られたものと思われる。ここで、漢の時代の天体観測による距離測量法を適用して考えてみよう。
漢の時代に発展してきた第二蓋天説2,3により、大地が球状と解釈される概念が行われるようになる。これと共に周髀の法、または句股弦の法が編み出される。すなわち八尺の表
つまり日時計の柱を垂直に立て、正午の時のその影の長さを弦と呼んでいるが、この長さにより南北距離を求めようというものである。夏王朝の都である陽城では、夏至の正午の時の弦は一尺六寸となる。是より、真南に千里離れる毎に弦の長さは一寸ずつ短くなるという。このようにして南北距離をこの弦の長さで計ると云うものである。
先ず、弦の長さが15寸と16寸の地点間の距離を求めてみよう。夏至の時の弦の長さが、一尺六寸の地点の鉛直方向と太陽のなす角度は
である、同じく弦が一尺五寸の地点での鉛直方向と太陽のなす角度は
である。
その差は、0.69°となる。この差がその地点間の緯度の差を表していることになる。一緯度離れた地点間の距離は111kmなので、両地点の距離は
111km×0.69°=76.66km
である。これが漢の時代の1000里であるので、一里は約77mと云うことになる。
同じ魏志[東夷伝]に見られる、半島南部は四千里四方という記事より、一里の距離を求めてみる。半島の幅を約300kmとして計算すると、一里は約75mとなり、上の数字と近く魏志に現れる里はこの距離で表されており、かなり正確なものと考えられる。また学生の歩幅に関する統計的研究4より、身長1.6mの人の平均歩幅は、0.766mとなっているので、百歩で一里として得られる76.7mと言う短里の距離の値は妥当な値と思える。古武彦氏も指摘いるように、魏志倭人伝の里数は総てこの値で記述されていることが分かる。
この法により、例えば、帯方郡の位置をいま仮に北緯38度とし、会稽東冶の東冶については議論があるが、会稽をとって考えれば、その中心は今の紹興市付近会とされているので、北緯30度余となる。同緯度には、会稽山、大陸の東に突出している岬と舟山諸島など目標となる地形がある。そこで、その間の距離を句股弦の法を使用して求めたとしよう。
北緯30°の地点の鉛直に立った表と、夏至における太陽の光線となす角度は、黄道の赤道に対する角度、即ち北回帰線の緯度23.4°を引いて
30°−23.4°=6.6°
となる。
そこで表の弦(影)の長さは
80寸×tan6.6°=9.26寸
北緯38°の地点でも同様に鉛直方向と太陽光線のなす角は
38°−23.4°=14.6°
である。
よって弦の長さは
80寸×tan14.6°=20.85寸
二つの弦の長さの差は
20.85寸―9.26寸=11.59寸
弦の長さ1尺に付き千里の南北距離であるので、その間の距離は一万一千六百里となり、これは郡から女王国までの距離一万二千里と云う記述とほぼ一致する。すなわち、一万二千里は郡からの南北距離であることを示しているし、句股弦法を使えば、かなり正確にその対を測定できることが分かる。と言うことは、女王国も郡から南北距離で一万二千里南方の地点にあることになる。なお、正確には弦の長さの変化と距離は比例しない。tanx=xとして取り扱っているので、場所により数パーセントの誤差を含んでいる。
しかし、帯方郡から緯度差でで8°とすると、女王国が大隅半島より南にあるとするのは不自然である。邪馬台国が七万戸を有することを考えると、やはり、もう少し広い平野を有する宮崎平野に求めるのが自然のように感じる。すると、緯度にして二度程度の誤差を有していることになる。
この差がどうして生じたかを想像すると先ず次の点が考えられる。
多分に魏使梯儁も夏至での影の長さを計り、南北距離にして一万二千里であるという認識を持っていた筈である。ところが、魏志の編者陳寿はこの値は帯方郡より求めたとした可能性は高い。
しかし、魏志には郡より狗邪韓国北岸まで、七千里という記述がある。
狗邪韓国北岸を今の釜山とすると、その緯度は約35度である。これが南北距離とし七千里をキロメートルに直すと
7000里×0.077km/里=539km
これを緯度に直せば、
539km/111km/°=4.86°
が得られる。
よって、郡の位置は
35°+4.9°=39.9°
となる。約北緯40度と云うことは、今の平壌より更に一度ほど北に楽浪郡がありそこから測った南北距離と云うことになる。邪馬台国も、楽浪郡から測れば、北緯32°、すなわち今の宮崎の地となる。編者陳寿には、郡に関して錯覚があったと考えると納得がゆく。
結局、魏志倭人伝が記している女王国は宮崎の地6 北緯32度前後の何処かと云うことになる。
参考文献
1. 石原道博編訳[魏志倭人伝]岩波文庫1951,pp44,45,108,109
2. 島尾永庚編「科学の歴史」創元社1987pp43
3. 藪内 清[中国の古代科学]講談社学術文庫、2004,pp125
4. 翁長兼良他[身長と歩幅に関する一考察、学生の歩測の実例から]流況大学農学部学術報告No.45,19984.
5. 倉西 茂「素直に読む魏志倭人伝による女王国の地」梓書院、季刊邪馬台国、104号2010、pp348
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