邪馬台国の位置は郡からの距離が天体測量の結果より宮崎であることは確定的である。この地に西暦280年の呉の滅亡の時にその軍勢が来ていることも納得に行く話である。呉軍一部であるニギハヤヒノ尊も[記紀]による河内にも天の岩舟に乗って到来している。神武天皇は宮崎に来たニニギノ尊の子孫、あるいは関係者であるとすれば辛酉の年に橿原の宮で即位したのは西暦300年頃の話である。崇神天皇の没年が318年であれば、神武天応は年齢30-40歳となり、それは神武天皇の没年である可能性は高い。即ち神武天皇と崇神天皇は同一人物であるという仮説が成り立つ。すると、欠史八代の天皇は宮崎に残った子孫の系列であるとすればこれまた話が合う。