神の名を出すならば、1910年に日本が半島を併合したのは、神の恵みと言えるだろう。そのため、半島の住民はよりよい生活が出来るようになったのだから。しかし、どうもそれは日本とって天罰だったらしい。多くの富を送ったうえに、終戦以来酷い目にあい、雑言を浴びせられているのだから。韓国にはキリスト教徒は多いらしいが、聖書の教えに従い発言しているのを聞いたことはない。何処にキリスト教徒はおられるのだろうか?
不思議なことに、独裁者は少数派から出ることが多いようじゃ。例えば、イラクのフセインは少数派のスニン派の出であり、シリアのアサドも少数派のアラウイーはである。少数派は結束が高く、組織内組織を作り、その誰かが一度ある地位を得ると、その影響力を使ったその少数派から人材を登用・配置し、一大勢力を形作り独裁者になってしまうと云うものである。我が国でも、少数派とみられる異分子が企業などを乗っ取ってると云う例はあるようである。特に新興宗教や在日により、NHKを含みマスコミや広告機関が乗っ取られているように感じるが心配のし過ぎであろうか。
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どのような訳か急に女性宮家の創立を政府は言い出したが、今の政府の事であるからどうせ何らかの利権が絡んでいると国民は見ているのでは無かろうか。皇位の断絶を心配するのならば、旧宮家を含め皇位継承順位を広げれば、それで済む話ではないか。勿論皇位継承権を持つには,その方々には何らかの義務を課す必要がある。先ず必要なのは、配偶者に対して制限を設けることであろう。三代先の祖先が不明な人の子孫に継承権を与えるなどは以ての外である。配偶者を含め、宗教に関しても制限をする必要がある。継体天皇のように五代前の血筋の方が天皇に成った例もある事である。
ヒトラーのアーリアン人種純粋主義の反動か、多文化を認めようという気風が世界に広まっているようじゃ。多文化主義というと耳に心地よい響きを持っているが、これが果たして世に和平をもたらすかというとそうでもないようである。と言うより異宗教の衝突や異人種の衝突の方が、この世に遙かに多く起こっているのが実情であろう。ヨーロッパでの多文化と云っているのは自分達がしたくない労働を異民族にさせてきたというのが本当の姿であろう。そのひずみが出て多くの国で異民族排斥の気風が生じている。本来棲み分けるのが自然界での和平の基である。多民族の地、我国でも、曾ては百国に分かれて争い、神道と仏教と争い、何百年を掛けてようやく人々がそれぞれの文化に馴染んで、今日の単一文化を形成してきたと言えよう。その間多くの争いが生じるのは自然なことである。多文化の良いところは、その争いの中に新しい文化が生じるところにある。その代わり、その間に人類は多くの争いを覚悟しなければならないだろう。只排他的文化を持つところでは融合が行われるかは疑問である。例えば排他的一神教間では、お互いに宗教を捨てなければ難しと思われる。
もし、関係者の中に大学新入生がおられたら、サークル活動には気を付けてください。怪しげの新興宗教とか過激派崩れなど魑魅魍魎が新入生の勧誘に暗躍していると思わなければなりません。奇妙な組織に取られないようにしてください。
今日は楽しい雛祭りというのに、一寸目を外に向けるとリビアでは相変わらず人が殺されている。しかも、二十一世紀の今、それも一人の狂気の人間に行われているのは真に残念である。カダフィ大佐は自分は国民に愛されていると言いながらその国民を殺略するのはどういう心境なのか理解に苦しむ。愛していない人間は殺すというロジックなのだろうか。友愛とか言っていた元首相がいたが、これも同じ発想なのか真に恐ろしいことである。
拙者の見るところ、独裁を始める動機は少なくとも二つある。一つは自分の持つ思想を押しつけるために独裁を始める。しかし、人間の考えるイデオロギーなるものは大したものではない。良い例が、共産主義である。すぐに矛盾が出て、滅びる。一つは利権を独り占めするために独裁を始めるが、これ又直ぐに腐敗をし民衆から離れる。この二つを共にしていて長続きするはずもない。
最近検察のあり方が問題になってるようじゃ。要するに、検察は悪を逃さず、されど冤罪を作らないのが原則じゃ。それに加えて、限りなく黒に近くても証拠不十分で有罪とは成らない事件も増えている。しかし、起訴すれば社会的制裁を受けたとする考えにも拙者は反対である。この難しい検察のあり方をどう運営して行くのかという問題は、行き着く所は、総ての組織でもそうであるが、人材の育成である。権力に溺れているところが最近裁判も含め、検察にも見て取れる。蛇足を加えれば、検察も含め、総ての公人は米国の大統領のように個人情報を公開すべきである。共産主義も含めオカルト的思想の持ち主には、自分の信条を取るのか、法を守るかを問わなければならない。自分の信条で法を曲げ、死刑が出来ない法務大臣などは排除すべきである。
科学は本来自然界に存在する法則を見出し、あるいは分析を行う学問である。人間の脳のどの場所で満足感を扱うのであるかとかその電流波形などを分析は科学の用意気であるが、どのようにして幸福感を得るかなどと云うのは科学が扱う領域ではない。なぜそこにあるかのどと云うのは宗教の世界である。幸福の科学などと云うものはこの世には存在しない。政治と宗教と云うものも本来互いに独立したものであり分けられるべきものであろう。
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